シェアする

ミャンマーという国

シェアする

ミャンマーの国についての考え方を変えようと思う。そもそも、この国は発展を望んでいない国ということ。ミャンマー人は経済の発展を望んでいるようなことを言うけど、やっていることは発展を望んでいるとは到底思えないし、この国の発展などありえない。だけど、発展することがいいともいえないから別にいいのではとも思う。
 まず、普通の国では、富の分配は国を通じて行われるものだ。富裕層には多くの税率を設定し、貧しい人は低い税率になる、もしくは、貧しい人に分配される。だけど、ミャンマーでは税収というシステムがないに等しいし、実はそれは必要ない。
 ミャンマーでの富の分配は、仏教という宗教が深くかかわることにより行われるシステムになっている。この分配システムは簡単で、必要以上のお金があれば、ミャンマー人はパゴダ、お寺、モナストリーに寄付をしたり、仏塔を建てたりする。お金のない人は、パゴダ、お寺を作る、建てるなどして働いてお金を得る。食べ物がなければ、お寺に行けば食べられる。そう、これが、仏教を通じた富の分配システムになる。これは、ミャンマーのいい面でもある。

 だけど、これには大きな問題がある。普通、ビジネスでお金を得たら、その利益を元に新たな投資を行って、更に利益を得て投資を行ってと循環していくものだ。だけど、ミャンマーではそうはならない。利益、お金を得ると、パゴダ、仏塔を建てたり、お寺に寄付をしてしまう。その寄付は貧しい人たちに分配されるという意味合いがあるから、富の分配が必然的に行われるのだけど、そのパゴダ、お寺、モナストリーに寄付をすることは何も生まない。ただ単に消費されるだけになる。パゴダ、お寺、モナストリーを作ることは単なる消費だ。これでは何も作り出すことがないのだから、ビジネスの循環が生まれることはないので、国も当然のごとく発展することはない。
 だから、いつまでたってもミャンマーは新興国だ。だけど、みんなが仏教に寄付をすることによって安定的に暮らせるシステムなのは確かだ。結果的に、ミャンマー人はそれを望んでいるってことだろう。

 国としては、鎖国をしてみんなで安心して楽しく暮らせるのであればこのシステムでも全く問題ないし、このシステムのほうがいいのだろう。そう、日本で言えば、鎖国をしていた江戸時代以前なら全く問題ないということ。だけど、いまは国際化が進んで、国と国との貿易が行われるからそうはいかないってのもある。だけど、このシステムは、なんだかんだみんなが食べることだけはできるので、みんなが耐えられるシステムであるのも確かだ。更に、ミャンマーは水っていう資源が豊富な国だから、食べ物に困るってことはない。一年中夏だから、寒い時期に備えてってことも必要ない。森に入れば食べ物は落ちてる。マンゴーなどは買うものではない、拾うものだ。恵まれた自然環境でもある。
 最低限、ミャンマーの人達は生き延びることができる。餓死者が出ることはそうそうないシステム。それが維持されるのであれば、がんばる必要はない。システムが維持されるがんばりだけで構わないということ。逆に、その必要最低限のがんばりでのんびり暮らすってのも一つの考え方でもある。

 みんなが必要最低限のがんばりで、国の、経済の発展を望まなくても社会が回るのであればそれはそれで構わないし、みんながそれを望むのであれば、ミャンマー人にとってはそれが幸せってことだ。

 日本人的な感覚にはない、対極的な国、文化ということ。だけどね、日本、タイ、シンガポールに働きに行くことを望み、外貨を稼いでミャンマーに送金し、家を建てて終わりっていう考えはやめろと言いたい。
 それは、自らが奴隷になりに行っているようなものだ。技術を得て、国に持って帰り、ビジネスを始める、投資をするというのならばいいけど、ただ単に消費をして終わりになるってのは国にとっても、自分達ミャンマー人にとっても好いことではない。