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日本とミャンマーの仏教の違い

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 日本の仏教とミャンマーの仏教、何が違うかって言えば、慈悲だ。慈を重んじるか?悲を重んじるか?ま、大乗仏教と上座仏教の違い。
 自分中心か?それとも、周りの人が中心か?ということだろう。今日の朝、パゴダに行って朝日を見てお参りしてて、なんかしらないけど思った。
 ミャンマーでは、みんなが進んでお布施をする。なんでそんなにするんだろう?ってくらいお布施をする。日本人にはない感覚だし、外国人にもないだろう。
 たぶんだけど、根本的な考え方が違う。そう、個人のためか?それとも、周りのみんなのためか?『自分が修行して幸せになっても、周りの人達が幸せにならなければ意味ないじゃん!』そのための仏教であり、パゴダ、お寺であり、お坊さんということ。
 日本の仏教は、個人の研鑽、修行が中心だ。だけど、よくよく考えてみれば、個人の研鑽、修行は個人の幸せ?満足?解脱?のために、なんで他人がお布施をしなければならない?となる。
 だけど、ミャンマーのように、みんなの幸せが中心であれば、自分のするお布施が巡り巡って自分にも帰ってくるよなって。安心して暮らせる社会ができるのだから、そりゃあ、みんなお布施をするわなと。
 世界で一番寄付をするのがミャンマー人だ。仏教がみんなの幸せの中心に存在することによって、みんなが平等に近く暮らせるようになる。意識的か無意識的かはわからないけど、そういう社会システムということなのだろう。そう、お布施などによって自主的に富の分配が行われているのがミャンマーだ。
 ミャンマー人は人生のうちで何回かは出家する。そこで、煩悩?を取り払う。仏教の三毒といわれる貪・瞋・癡(とん・しん・ち)。こういうものを取り払うためでもある。
 ミャンマーは軍事政だったので、ほとんど鎖国していた状態であったから、この現代にあってもそのような風習が色濃く残っている。これがミャンマーのいいところだけど、逆に国の発展を阻害している原因でもあるのだろう。だけど、みんなが幸せに暮らせればそれが一番いいということだし、それと国の発展は関係がない。国が発展したからといって、みんなが幸せになるわけではない。競争する社会がいいというわけではない。ミャンマーは、日本で言えば江戸時代にあたるってことだろうな。こういう社会システムもあるということ。このような宗教なら、あってもいいよなと思う。